仙台藩伊達家の菩提寺・瑞巌寺にて伊達政宗が晩年に述懐した漢詩「馬上少年過ぐ」に共感

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上掲の写真は 伊達政宗が1609年に再興・整備した伊達家の菩提寺・瑞巌寺です。 伊達政宗(1567~1636年)を藩祖とする仙台藩の石高62万石は 加賀・前田家、薩摩・島津家に次ぐ全国第3位で その支配地は 現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町という広大なものでした。

政宗は 天下に臨むつもりでしたが 先ず足元の奥州平定事業に取り組んでいた時に 中央で秀吉の政権が成立してしまい その後を家康が天下を定めたので 天下を得ずに生涯を終えています。 政宗は68歳の天寿を全うし没しましたが、晩年、次のような心境を漢詩に残しています。

  馬上少年過(馬上少年過ぐ)
  時平白髪多(時、平かにして白髪多し)
  残躯天所許(残躯天の許す所)
  不楽復如何(楽しまざるをこれ如何せん)

  四十年前少壮時(四十年前少壮の時)
  功名聊復自私期(功名聊(いささ)か復(ま)た自ら私に期す)
  老来不識干戈事(老来識らず干戈(かんか)の事)
  只春風抱桃李巵(只春風に桃李の巵(さかづき)を抱く)

おおまかな意味は次のとおりです。

若い頃、馬に乗って戦場を駆け抜け活躍したが、今では世の中は太平になり、また、自分にも白髪が増えた。天から与えられた余生が残ってはいるが、これを楽しまずしてどうしようか、(楽しいとは思えないのはどうしたことなのだろうか)

四十年前の若く勢いがあった頃は、功名を立てるに、口にこそ出さなかったが、秘かに自信があった。しかし、歳を取ってしまい、戦のことなどすっかり忘れてしまった。今はただ、春風に吹かれながら、桃と李(すもも)の花の下で酒を楽しむばかりである。

優れた統率力と才能を発揮し、時には天下人すら敵にまわし、死の直前まで天下を取る野心を捨てなかった政宗でしたが 晩年の体力の衰えに打ち勝つことは出来なかったようです。  この漢詩は 功成り名遂げた政宗が自分の人生を振り返って満足しているという感慨を詠んだものなのか 天下を取れず徒労に終わった自分の人生を苦々しく思っていることを詠んだものなのが 解釈が分かれるようですが 苦々しく思っていると解釈した方が正しいのではないでしょうか?

この漢詩は 政宗が政宗自身の生涯を回顧した自分史的な面白さがあり 平仄(ひょうそく:漢詩で重視される発音上のルール)と韻が正確に作られていることから 政宗が乱世を生き抜いた教養人でもあったことを示すものだそうです。 

夢の内容は異なるものの 政宗の漢詩に共感する今は夢破れて定年退職した元企業戦士も多いのではないでしょうか?

伊達政宗の菩提寺は 松島の「瑞巌寺」と仙台の瑞鳳殿へ行く途中にある「瑞鳳寺」の二つがあります。 どちらが格上の菩提寺なのか良く分かりませんが 政宗が生存中に改築したのが瑞巌寺で 死後の墓として指示したのが瑞鳳寺です。

瑞巌寺の参拝を済ませてから 表参道を歩き 松島湾に突き出た小島に建つ瑞巌寺五大堂(1604年に政宗が再建)を訪ねました。

東日本大震災の津波被害が松島で少なかったのは 松島湾に浮かぶ多くの島が防波堤の役を果たしたからと言われています。 しかしながら 瑞巌寺の山門から本堂につながる約180mの参道両側に起立していた杉並木1000本の2/3が津波の塩害で枯れ伐採されたので 昔の幽玄で厳粛な参道の雰囲気を失っており 残念でした。

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瑞巌寺

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東日本大震災の津波被害を受ける前の表参道(ネット情報から転用)

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瑞巌寺五大堂へ渡る橋

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瑞巌寺五大堂へ渡る「すかし橋」

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瑞巌寺五大堂

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五大堂から撮った「松島湾」

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松島湾

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